[編む / weave]








展示に向けて書いた文章:

こちらが私の作品『編む』です。一応作品解説をしておくと、これは組み立て式で売られている段ボール箱を組み立てずに「編んだ」作品です。身近な素材ですが、ふたの部分となる切れ込みのおかげでこういう風に編み込むことができます。

作品を作った理由は、段ボールをこういう風に組み合わせた時の形が頭に思いつき、それを「美しい」、「面白い」と思ったからです。

「交差展」に出展しておられる他のアーティストたちの作品と見比べれば、私の作品は、集中力や技術、労力を使っていないように見えるでしょう。それは事実です。でも、私は「意外性」にもアートの価値があると思っていますし、そういった作品が展示されるべきだとも思います。この「意外性」というのは、誰の家にでもある素材がほとんど手を加えられることなく、しかし同時に違うモノと化してギャラリーに展示されているという意外性もあります。他の出展作品と見比べることによって見つかる意外性もあるでしょうし、私がこれまで展示してきた作品と比べることによって見えてくる意外性もあるでしょう。「箱となるべきもの」に別の用途、別の使い方を与えたという意外性もあるでしょう。

これは作品を作った後に思い出したことですが、以前フナイタケヒコ氏がサルーテで行われた文化講座「描くことの冒険」を聴きに行ったときには非常に驚きました。鳥取の一昔前(70、80年代当たりかな?)のアーティストたちは、今の鳥取ではあまり目にすることのない作品を様々な場所で展示していたのです。それらの(もしかするとポストモダンなんて呼ばれたものかもしれない)作品には、ある意味今回の私の作品に共通する意外性と、そこからくる面白みがあるように思えました。しかし最近の鳥取では、あまりそういった類の作品が見られないように思えます。

私は自分の作品をそれらと同じくくりに入れようというつもりはありません。しかしそれらが今の鳥取であまり見られないのは残念に思います。『「サイモンとガーファンクル」のアート・ガーファンクルのライブは鳥取で見れるのにポール・サイモンは鳥取でライブしない』のが残念なように、世の中に今も存在するのに身近では見れないということは残念なことです。『鳥取城は昔存在したのに今はもう何も残っていないから見ることができない』のと同じように、昔あったものが今見られないのも残念です。無いなら無いで困るわけでもありませんが、なんだか面白いこういった作品は無いよりはあったほうが嬉しいです。

私の今回の作品は、私がこれまで続けてきた創作やこれまでの人生での経験の上で頭に浮かんだイメージを形にしたものです。別に先に書いた「残念」な感情を抱いて、それらしいモノになるようにと形にしたわけではありません。作り終わってから考えてみると、それらの作品を思い起こすような気がすると思っただけです。これは別にどんな作品がよいかとか、昔のスタイルを復興させるべきだとかいうことではありません。

でも私自身はもっとこういった作品が見たいです。でもこういった作品を最近あまり見かけないのは、もしかしたら労力の跡が認められないという点だけでそこに作品としての意味を見出さない人や、自らそういった作品を作っていても受け入れられないだろうと思って展示しない人、そして作品に金銭的な価値が付きにくいと思っている(もしくは実体験として知っている)人がいる、もしくはそういった人たちが多いからなんじゃないかな、と思います。

高校生時代の私が『編む』を作っていたら、受け入れられないだろうと思い、展示することに躊躇し、恥じらいすら感じて展示しなかったかもしれません。そんな昔の自分に、こうして今の私が何の恥じらいもためらいもなく、躊躇することもなくこの作品を展示する姿を見せることができたらな、と思います。そうすれば、きっと当時の私は自分の作品に対するアイデア、考え、価値観に自信を持って、もっともっと面白く意外な作品を作ってくれたでしょう。

まあ、何はともあれこんな「深く見えるかもしれないけれども実は浅っぺらいかもしれないけど実際には書くのに時間がかかっている文章」なんか読んでないで「交差展」を見に来たほうがずっといいと思います。